殉職者の日

 7月19日はアウンサン将軍、閣僚6人と他2名が暗殺された日で「殉職者の日」としてミャンマーの祭日となっている。この日はシュエダゴンパゴダのすぐ北に位置する「殉職者廟」で盛大な追悼記念式典が開催され、多くの市民が参列すると同時に列席した各国の代表が花輪を捧げて9人の英霊を弔った。

 1947年7月19日(土)ビルマ政庁の2階のアウンサンの執務室で閣議を開催しようとした午前10時37分、銃を持った4人の男が部屋に乱入し、閣議に参加していた7名の大臣及び大臣の欠席を告げに来た交通通信局長及びガードマンの2名を含む9名全員を暗殺した。暗殺の首謀者とされた元首相のウー・ソウは事件後逮捕され、翌年死刑に処せられたが、暗殺の真の動機は不明のままのようだ。首相であった彼が英連邦への仲間入りを目指し欧米各国を歴訪している最中に第2次世界大戦が勃発し、日本への寝返りを図ったことで、英国によって、終戦までアフリカに抑留されたことが、戦後のミャンマー政界から取り残される結果に繋がった。15歳も若いアウンサンを中心とする若者達のビルマ独立に向けた活動を「それは俺の仕事だ!失せろ!」との思いで暗殺に走ったのではかなろうか?
 さて、その霊廟であるが、軍政時代には一般人の入場は固く禁じられていた。その背景には軍事政権にとって民主化運動の先頭に立っていたNLD及びそのリーダであるアウンサンスーチー女史の動きに対する警戒心が根強かったことによるものと思われる。晴れてNLDが政権につき、民主化に向けた大きな流れの中で、殉職者霊廟は一般市民にも解放され、新たな観光スポットとなった。そして「殉職者の日」にはヤンゴン市が主催する盛大な追悼式典が挙行されるようになった次第である。アウンサンスーチー国家顧問が霊廟の前で跪く光景がTVで観られることにも、歴史の大きな流れを感じさせる。

 日本であれば、祭日の行事は会場での式典でおしまいとなるが、それでは納まらないのがミャンマー人のようである。走行中のドライバーの中には10時37分になると車を一時停止させ、クラクションを鳴らして追悼の意を表す人がいる。更に経済的に余裕のあるアウンサン将軍信奉者は得度式や先祖の供養の時と同じように、数名の僧侶を家に招き、殉職者の追悼式を行うのである。勿論僧侶のみでなく、大勢の友人・知人・親類縁者も同時に招待し、朝食を振る舞いながらアウンサン将軍への追悼の想いを分かち合うのだ。我がコンドミニアムの3階に居を構えるミャンマー人家族が4名の僧侶を招いて追悼式を行うとのことで、その家族の友人の友人と言う関係から私もご招待を受け、その方のお宅に伺った。招待客は60名程度とのことであったが、三々五々集まって来る招待客は4つ程並べられた円形テーブルにつき、世間話をしながら朝食を戴き、食事が終われば帰って行く。その間、家の主は各テーブルを訪れ会話の輪に加わって場を盛り上げる役割を果たす。

<振る舞われた朝食1>

<振る舞われた朝食2>

 来客が食事を振る舞われている頃がちょうど殉職者霊廟での式典の最中であることから、部屋のTVでは式典の中継映像が流され、それを観ながらアウンサン将軍にまつわる話に花が咲く。やがて僧侶の到着である。

<僧侶に食事を振る舞う主>

<追悼式の準備も整う>

<参加者有志による追悼>

 先ずは僧侶に対する食事の供応を済ませた後、殉職者に対する追悼の仏事が進行する。その場に居合わせた参加者は、僧侶と共にお経を唱え、殉職者の追悼を行うのだ。
 家での追悼式はこれで終わるが、家族としての追悼の行事はまだ終わっていない。来客や僧侶を帰した後は、家族全員でシュエダゴンパゴダまで出かけるのである。それに同行した訳ではない私は最後の行事の真の目的までは確認できないが、敬虔な仏教徒である彼らは、アウンサン将軍達への供養を無事に終えたことを佛陀に報告すると共に、家族の安寧をお願いしたのではなかろうかと勝手に想像してみた1日であった。


2016年7月19日(火)
MyanmarDRK Co., Ltd. Managing Director
宮崎 敦夫