一時帰国していた日本からヤンゴンに帰ってきたのが、まだ雨期の只中の9月21日だったから、もう2か月は過ぎたのだとぼんやり考えている時に一瞬「70日」が頭を掠めた。どんな背景で70日と定められたのかは定かではないが、長期滞在の外国人は、70日毎に一旦ミャンマーから離れ、VISAを取得した上で再入国しなければならないルールとなっている。慌ててヤンゴンから最も近くて、気軽に行き来ができるバンコクへの国外退去を決め、格安航空券と安宿1泊を予約して28日(金)の夜オフィスを飛び出した。因みに価格は全て込みでUS200以下だから日本の国内旅行より安い。
若い頃には頻繁に訪れていたので、バンコクの街は知り尽くしていると自負していたが、空港に到着してすぐにそれが思い過ごしだったことを認識した。かつて、頻繁にバンコクに出張していた際には、空港に降り立った時から、滞在中の活動、そして帰国の際の空港までの見送りまで、全て現地の駐在員がつききりでアテンドしてくれていたため、大名旅行さながら、社用車以外の交通機関を利用する機会は殆どなかったため、街や市民との接点も殆ど皆無だったし、当時から既に10年以上の歳月が過ぎていったので、浦島太郎状態にもなっていた。
先ず空港で驚いたのは、エアポートレールリンクなる鉄道の存在で、到着ロビーから地下に下りたところに立派な駅があり、そこから30分もあれば街の中心地まで行けるのだ。おまけに電車賃はわずか45バーツ(約160円)。クアラルンプールKLIAエクスプレスの方が有名だが、こちらはノンストップの特急で所要時間は約33分とほぼ同じだが、料金は35リンギット(約1,200円)と、はるかに高価だ。バンコクの空港は羽田空港、クアラルンプールの空港は成田空港といった感覚か。
エアポートリンクで市内に入ると、路線の数は少ないものの、スカイトレインと地下鉄とを組み合わせることで、東京の山手線と同じ機能を果たす環状鉄道が出来上がり、総武線や京浜東北線のような東西や南北をつなぐ路線もあって、電車を制すればどこにでも自由にいくことが出来る都市交通網が一応整備されており、ヤンゴンと比べるとはるかに大都会であり、外からの訪問者にとっても市内の移動が苦にならない。バンコクはチャオプラヤ川の砂州の上の街なので、地盤が弱く、鉄道の敷設が難しいと言うのが当時の定説だった筈だが、技術が進歩したせいか、はたまた昔の言い伝えが根拠なき空論だったのかは知る由もない。
さて電車を降りて目的のホテルに向かって歩くこと10分程度。既に夜の11時を回っているにも拘らず、道沿いには路上マーケットの夜店が並び屋台では多くの客が賑やかに食事を楽しんでいた。まさにアジアの活気と喧騒が、10数年前の記憶を呼び覚ました。
これが深夜の2時頃まで続くバンコクの夜なのだ。
チェックインを済ませ部屋に入るとすぐフロントにタイ式マッサージを依頼した。出来るだけ力のあるマッサージ師を頼むと言い添えて。約10分後に現れた女性は期待通りであった。白鵬を女性にしたような、見るから逞しい体型だった。実は1か月以上前から寝違えによる右肩から首筋にかけての懲りと痛みが激しく、自助努力で修復を試みていたのだが、一向に回復しないため、バンコク行きを決めた時からバンコク旅行の目的を「タイの古式マッサージで懲りの痛みから開放されること。」と決めていたのだ。足から始まった激しいマッサージはやがて肩や首筋に及び、遂に彼女は私の患部を探り当てた。そして「ここだ、ここだ。」と言いながら、お宝を掘り当てた犬の如く、幹部を攻めまくった。激痛で思わず漏れそうになる悲鳴をかみ殺しつつ、どれ程耐えたかは定かではないが、やがて痛みがとれて肩や首筋が嘘のように軽くなった。タイ式マッサージは効果覿面であることを体感できた夜であった。感謝を込めてチップを弾んだのは当然で、満足の笑みを浮かべつつ、彼女は部屋を後にした。
処が正常だった筈の足の筋肉が痛むので、翌朝はチェックアウトぎりぎりまでホテルのプールで泳ぎ、足の筋肉をほぐした。そして午後からはひたすら徒歩と電車を利用しての市内視察に精を出した。路上で目についたものは、いたるところに飾られている小振りの寺院でお釈迦様の像が飾ってある。これらは常に手入れされているようで、市民が街角の寺院をいかに大切にしているかが読み取れる。かつてバンコクの街を車で走った際、信号待ちで止まっている間にこの街角の寺院に向かって手を合わせていた運転手のことを思い出す。
今回その寺院以上に目についたのがプミポン国王の大型のパネルの飾りである。ホテルやランドマークタワー等、立派なビルの前には花で飾った巨大なプミポン国王の肖像写真が飾られていたが、これはどうやら12月5日に87歳の誕生日をお迎えになる国王を祝うための飾りであるようだ。ミャンマーでは誕生した日の曜日によって色々なことが決められるが、タイでも同じで、国王の誕生日にあたる1927年12月5日は月曜日なので、国王は月曜日の色である鮮やかな黄色で飾られていた。
昔よく通った古い町並みへのセンチメンタルジャーニーを試みた後、最後にバンコクの中心サイアムセンターに足を踏み入れた。折から蘭の品評会が開かれており、数々の見事な蘭が、処せましと並べられていた。花の色と言い形と言い丹精を込めて育てた作者の思いが伝わって来るものであった。やはりタイの象徴は蘭の花なのだろう。
夕暮れ迫るバンコクの市内を後にして空港に向かうべく、エアポートレールリンクの始発駅パヤ・タイ駅のホームに立ったが、改めてヤンゴンとバンコクの気候の差を認識した。昨日の同じ頃のヤンゴン空港の空は澄み渡り、秋を思わせる爽やかな風が吹いていたが、ここバンコクの駅のホームではじっとしていても汗が自然に滲み出すほどの湿気とうだるような暑さが身体に纏わりついてきた。緯度にして高々3度ほどしか違わないから仙台と東京程の差程でしかないが、ここまで気候に大きな差があることを改めて認識させられた1日であった。コンクリートの塊に変身した大都会のバンコクと、森と泉に囲まれた自然溢れるヤンゴンとで違いが出てくる気候の差は、自然環境がどれだけ守られているかどうかの差なのかもしれない。と素人感覚で納得した次第である。
夜の7時半過ぎには国際空港のターミナルに到着。チェックインを済ませて搭乗ゲートに向かったが、品評会で鑑賞した蘭にもひけをとらない程の見事な蘭の鉢植えが長いコンコースに等間隔に飾られており、旅の疲れを癒してくれた。
2014年11月30日(日)
MyanmarDRK Co., Ltd. Managing Director
宮崎 敦夫