ピエの街はヤンゴンから北西260Kmに位置し、人口が約24万人の中堅都市である。2014年6月にミャンマーで初めて世界遺産に登録されたピュー古代都市群のある街でもある。ビルマ人による初めての国家スリ・クセトゥラ王国として640年に建国された旧都の遺跡がある街である。日本で言えば古墳時代の後期、舒明天皇が厩坂宮(うまやさかのみや)現在の奈良県橿原市大軽町に遷都した年だから、その古さが想像されよう。建国当時は東南アジア最大の城塞都市であったが、モン人やタイ人の侵攻によって王国は衰退した。その後、11世紀に入ってミャンマー南部を征服したバガン王朝によって遺跡が破壊されたり、19世紀には英緬戦争の結果、イギリスに占領されたり、20世紀には日本軍に占領されたりで様々な苦難の時代を経て今日に至っている。
さて、そのピエの街へ最近車を購入したミャンマー人の友人と日帰りでドライブ旅行に出かけることとなったのが、1月も半ばを過ぎた土曜日の朝であった。早めの朝食を済ませ8時過ぎにはピエに向けてヤンゴンの街を出発した。高速道路ではなくヤンゴン・ピエ・ロードと言う一般道路なので、途中いくつかの街や村を通り抜けながら、ひたすらピエを目指した。途中、いくつかの街の市街地を通過する際には多少の渋滞もあったが、予定通り午後2時にはピエの街に到着した。
ヤンゴンからピエ迄の地図
街の入口を示す赤い立て看板を左手にやり過ごして街の繁華街に入り、レストランで遅い昼食をとる。食事のメニューや味はヤンゴンのそれと特段の違いは感じられなかった。
ピエの街の入口を示す立て看板
ピエのレストランでのランチ
日帰りの旅と言うことなので余りゆっくりしている暇はない。食事が終わったら早速観光地巡りに出かけた。先ずは街のシンボルとなっているシュエサンドーパゴダを訪ねた。ヤンゴンのシュエダゴンパゴダ、バゴーのシュエモードーパゴダと並んでミャンマーの3大パゴダの1つとされている立派なパゴダである。街の中心部近くの高台に建っているため、市街地を一望することが出来る。ただパゴダから見渡す市街地は日本の古都を代表する奈良のような古いたたずまいは無く至って平凡な街並であった。
シュエサンドーパゴダ
パゴダの広場から街を見下ろす
続いて町から東に9Km程走った所に位置する古代都市の遺跡群を訪ねた。時間があれば先ずは考古物博物館に入り、勉強すべき価値のある遺跡であるが、それもスキップして、現地の空気感を味わう事に専念した。建物らしき建物は殆ど残されてなく、広大な田園風景の中に、世界遺産に登録されたことを示す純白の石碑が誇らし気に据えられ、古代都市が存在していたことを窺わせる土手や礎石等が点在していた。
世界遺産登録を示す石碑
古代都市の遺跡を示す土塁
この遺跡から更に数Km走った所にユニークな形のパゴダが現れた。ともかく石を積み上げて作り上げられたような素朴なパゴダで、形は誰の目にもイビツに見えるほど歪んでいるものもあったが、それが古代の遺跡であることを如実に示している証であるように感じた。日本ではパゴダは余りなじみが無いが、上座部仏教の国ミャンマーでは太古の昔からパゴダに寄り添った生活を連綿と続けていることを感じさせる。
ピエ風パゴダ
ボーボージーパゴダ
ここで、日本に浸透している大乗仏教とミャンマーに定着している上座部仏教との基本的な違いについてパゴダの位置づけの観点から解説しておこう。大乗仏教の世界では、いくつかの宗派が存在するが、何れの宗派もお寺を中心に檀家が組織され、信者はお寺を訪問し、寄進をしたり、お墓を建立したりして、お寺を中心としたソーシャルネットワークを形成する。
一方上座部仏教の世界では、お寺は出家した僧の修行の場で、一般の信徒がお寺を訪問する事は無い。輪廻思想が徹底しているミャンマーでは亡くなった人は1週間後には別の人となってこの世に生まれ変わるとされているため、お墓も存在しない。葬儀場の焼き場では、焼かれた遺体の上で他の人の遺体が焼かれ、遺骨を集める事は無い。従って信徒が祈りを捧げる信仰の場はお寺とは別の場所に設けられている、そこがパゴダなのである。つまりミャンマーの仏教徒にとって、パゴダは最も重要な信仰の縁なのである。
2021年2月5日(金曜日)
MyanmarDRK Co., Ltd. Managing Director
宮崎 敦夫